福者ユスト高山右近殉教者 列福感謝ミサ(東京) ミサ説教

高山右近列福感謝ミサ(東京)photo © いつくしみセンター (CC BY-NC-SA 4.0)

2017年2月7日の高山右近列福に感謝する「福者ユスト高山右近殉教者 列福感謝ミサ」が、2月10日に東京・麹町教会(イグナチオ教会)で行われました。多く方が参列されたため、ミサ開始前に既に多くの立ち見の方がおられました。

ミサ説教を書き起こしました。聞き間違い等あると思いますが、参考にしていただければと思います。

(なお、列福式当日のアマート枢機卿によるミサ説教は、カトリック中央協議会のサイトに全文がPDFでUPされています。)

司式

主司式: アンジェロ・アマート枢機卿(教皇フランシスコ代理・教皇庁列聖省長官)
共同司式司教:ジョセフ・チェノットゥ大司教(駐日教皇大使)
ペトロ岡田武夫大司教(東京教区)
ラファエル梅村昌弘司教(横浜教区)
パウロ大塚喜直司教(京都教区)
共同司式司祭: 約30名

朗読箇所

第1朗読: ローマ8・35-39
福音朗読: ヨハネ12・23-28

※列福感謝ミサのため、この日の本来の朗読箇所とは異なる箇所が選ばれました。本来の朗読箇所は、以下の通りです。ミサ説教の冒頭は、この本来の朗読箇所を念頭に話されています。
第1朗読: 創世記3・1-8
福音朗読: マルコ7・31-37

ミサ説教 アンジェロ・アマート枢機卿

兄弟姉妹の皆様、聖ベネディクトの姉妹・聖スコラスチカの記念日にあたり、今日の典礼は神からの2重のメッセージを提起してくれます。
まず最初に楽園でアダムとエヴァが犯した不従順の罪を犯さないように、と。そして2番目に、身体あるいは精神の病を癒して下さる主を褒め称えるために声を使うように、と。そういう2つの点であります。

福者高山右近の態度も含まれます。まさしくそのもの、そういう模範のような態度でありました。子供の時に洗礼を受けたあと絶えず主に従順であり、彼の生き方は主イエズスの福音の絶え間ない宣言でありました。神への信頼と永遠の命に対する信仰は彼にとって息吹のようなものでありました。
右近の列福式は彼の日本人キリスト者としての気高い姿を目の当たりにしてくれました。彼は本当に霊性の深い人でした。右近は知恵と理解、判断と勇気、神を知る恵み、神を愛し敬う心、つまり聖霊の7つのたまものを豊かに与えられました。このような霊的な武器でもって、聖人になる戦い、そして宣教師になる戦いに挑みました。
福者右近はキリストと深い思慮を持ち合わせ、すべての人にキリストをもたらすこと、日本を模範的なキリスト教国にすることを、自分の理想だと考えていました。彼はすべてを信仰の目で見ていたのです。アブラハムのように謙虚で貧しく生き、無視され、最後に不信と困難の中で日本から追放されたのです。

信仰の証し人であった右近の特徴はいくつもあります。まず誰に出会った時も熱心に福音宣教に励みました。霊魂の救いのために、この上もない霊性を持っていました。
さらに福者高山右近は恐れなくかつ冷静に、迫害と追放を忍びました。信仰を捨てるようにと勧められても、お世辞に負けることはありませんでした。磨かれた人格と揺るぐことのないその信仰の持ち主だった故に、洗礼の約束を忠実に守りました。
聖イグナチオの霊性をよく身につけ、すべてを神に委ねる彼の心は見事なものでした。追放された後も福者右近は富から離脱していたことが分かっています。政治と関わることがないように、フィリピンの総督からの経済的援助を断りました。ようするに、忠実であるために、自分のことを絶えず後回しにしていました。

右近は忍耐強い人でした。改宗は自由でなければならないと信じており、使徒的活動においても決して改宗を押し付けることはしませんでした。この事実は、400年前の日本の状況とはいえ、今日も重要な側面ではないでしょうか。

右近にとって神の愛は最高の価値であり、それを得るために一切の事物を犠牲にしました。名誉、富、権力を拒み、たった一つの宝として信仰生活を大事にし、それだけを自分のものにしました。このようにして、幸せが物の所有にあるのではなく、徳や神の愛に生きることにあると彼は示してくれました。

高山右近の列福は日本の教会にとって、福音宣教に新たな目覚めと新鮮な刷新を促すメッセージだと言えます。彼は本物の立派な日本人でありながら、本物の立派なキリスト者でもありました。きっと彼の模範は、無関心と困難の多い状況にいる日本人キリスト者の信仰生活にとっては支えと励ましになるでしょう。高山右近は福音の日本版を見せてくれると言えるのではないでしょうか。彼にとって福音は、西洋や東洋のある特殊の文化の所産ではなく、福音はすべての人とすべての文化に救いの道を示す神の聖なる言葉でありました。

福者右近が行っていた茶の湯は、侍の伝統と多少異なり、福音の文化受肉の例証であります。周りにご絵を飾ったり、祈りを混ぜたりしておりました。そうすると茶の湯は神と直接に出会うときとなっていました。客をもてなしながらも、彼らに誠実さと共鳴を要求していました。

福者高山右近はキリストの心の弟子でした。したがって彼の列福は過去の一人の英雄の祝いではなく、現代にも通じる偉大なる天的な一人の信仰者の祝いです。私たちは右近が見せて下さった模範を目の当たりにして感嘆すると同時に、それにあやかり、その御取次ぎを願うのです。

列福は列聖の前の段階であると私たちはよく存じております。列聖のために教会は福者の御取次ぎによる1つの奇跡を要求しています。
したがって、日本の信者は、神の忠実なしもべであった高山右近が恵みや奇跡を与えて下さるように祈らなければなりません。特に今日私たちは皆、彼が私たちを啓蒙し、守り、そして豊かな恵みで満たして下さるように祈りましょう。アーメン。

写真

●イグナチオ教会外観(列福感謝ミサ立て看板)
列福感謝ミサ 立て看板

photo © いつくしみセンター (CC BY-NC-SA 4.0)

●TwitterにUPされた当日の写真

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