2013年3月29日 聖金曜日・主の受難の式でのお説教の要旨


サン・ダミアノの十字架

2013年3月29日、教皇フランシスコは受難の朗読を3人の助祭(フランシスコ会士2人、ドミニコ会士1人)と共に行われました。

この日の説教は、教皇の説教師であるラニエロ・カンタラメッサ神父(カプチン・フランシスコ会)によって行われました。
テーマは『キリストの御血に対する信仰を通して、神からの贈り物として、私たちは義とされる』です。
以下はその要旨です。

(この下に「 続きを読む 」と表示されている場合は、その文字をクリックして全文を 表示させて下さい)

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

「今日私たちは人生で最も重要な決断をすることができます。それは、イエスが私たちの罪のために死に、私たちを義とするために復活されたことを、信じるということです。
アダムやイブと異なり、罪を犯したからといって私たちは神の現存から隠れる必要はありません。その代わり、義認される必要があることを理解しなければなりません。とはいえ、自分で自分を義とすることはできません。」

復活されたイエスへの信仰は、新しい光のもとで世界を見るように助けます。惨めさ、不正を超えて、世界を見るように助けるのです。なぜなら、「死んで復活されたキリストにおいて、世界が最終目的地に至り」新しい天と地が始まることを知っているからです。

宣教の力強い道具である十字架に目を移しましょう。
十字架は、信じるものと信じない者とを分けてしまう時があります。十字架は、ある者には愚かなものであり、ある者にとっては「キリストがすべての人のためにその身を捧げられた」ために、「より深い部分ですべての人を一致させる」、他の人に対する愛の究極の象徴であるからです。それゆえに、宣教は、キリストの十字架に基づく神秘的な贈り物なのです。宣教は、征服でも宣伝でもありません。宣教とは、キリストを通じて、世界で神の贈り物を分かち合うということなのです

キリスト諸教会の多様さ、過剰な官僚主義、今では残骸でしかない過去の儀式や法律や論争の遺物により教会を分断する壁によって福音のメッセージを邪魔する建物とならないように、私たちは教会を守らなけれなりません。

勇気をもってその壁を打ち壊し、初心に立ち返り、単純で真っ直ぐな建物にしなければなりません。それが、サン・ダミアノの十字架の前で祈った人が受けた使命です。
「フランシスコよ、行って私の教会を建て直しなさい。」

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

※ 画像はクリックすると拡大表示されます。


はてなブックマークに追加
Yahoo!ブックマークに登録


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です