聖アンドレ修道士 (1)

3月は「聖ヨゼフの月」です。
聖ヨゼフの信心を広めたカナダの福者であるフレール・アンドレ(聖十字架修道会)をご紹介いたします。
(※ 「フレール」は「修道士」の意)


その1 その2


「わたしは、あなたがたと同じような普通の人です」

かれの名前はアルフレッド・ベセット、1845年8月9日生まれです。とても弱い子でしたので、親はすぐその場で洗礼を授けました.
父親は木こりでした。アルフレッドが生まれて4年後、不況のため仕事がありませんでしたので、ファーナンの町に家族を連れて引っ越しました。しかし、父親は仕事中倒れた木の下敷きになって亡くなりました。このとき、アルフレッドは9才でした。母親は40才で、10人の子どもをもつやもめになりましたが、3年後に結核にかかって母親も亡くなりました。のちにフレール(修道士)・アンドレとなったかれは、「わたしは、母に対してあまり祈りませんでしたが、しばしば母に助けを求めました」といいました。母の死後、家族はバラバラになり、12歳のアルフレッドは生活するために仕事をしなければならなくなり学校を辞めたので、自分の名前を書くことと、祈りの本が少し読むことができるくらいの知識しかありませんでした。

労働者

アルフレッドは体が弱かったのですが、生活するために、農家の仕事、大工の手伝い、鍛冶屋、ブリキ屋、パン屋、靴屋などをしました。のちにアメリカに移住して、4年間、製糸工場でも働きました。「わたしは体は弱かったけれど、誰にも負けませんでした」ということができるほど、熱心に仕事をしました。1867年、カナダが連邦制度になった時、大勢のカナダ人と同さまにカナダに戻ってきました。こうして、13年間が過ぎました。
1870年、アルフレッドは、モントリオールの聖十字架修道会の修練院に入会を申し込みましたが、健康ではなかったので修道生活ができるかどうか疑われました。結局、入会が許されて、フレール(修道士)・アンドレと呼ばれるようになり、ノートルダム・カレッジの門番の責任が与えられます。「わたしは入会してから40年間、この仕事を続けました」。この他にも、床洗い、ランプ磨き、薪運び、メッセンジャーなどの仕事を毎日しました。

人づきあいの良い人

小聖堂(改築後)まもなく門番のところに訪れてくる病人や悩みのある人たちに、聖ヨゼフに祈るようすすめ始めます。毎日自分の詰所に座り、またカレッジ前の停留所で人を待ち、話を聞き慰めていました。フレール・アンドレは、聖ヨゼフが山の中に自分のためのところを望んでいると確信していましたので、カレッジの生徒の散髪代と友人の援助によって、1904年、山の上に最初の小さな礼拝堂を建てました。
医者の説明できないような回復をした人の話がますます広がっていきました。フレール・アンドレはほうぼうの病人を訪問するようになり、アメリカまでも行きました。こうしてかれのことを奇跡を行う人という噂が広まりましたが、フレール・アンドレは「わたしはなにもしていません。ただ、神さまと聖ヨゼフの道具に過ぎません」と繰り返していました。のちに「フレール・アンドレが奇跡を行うなどと考えるのはばかげたことです。あなたがたを治すことがおできになるのは、神さまと聖ヨゼフであってわたしではありません。わたしは、あなたがたのために聖ヨゼフに祈るだけです」といっていました。フレール・アンドレが祈ると治る人が多くなりました。
かれは、初めて会う人には冷たく感じられましたが、反対に友だちと一緒の時は穏やかでまた冗談やからかうことが好きで、たびたび「悲しそうな顔はいけない。少し笑うことは良いことだ」といっていました。特に貧しい人や苦労する人たちに、自分の喜びを伝えるように努力しました。
かれは意志の強い人ですが、その目には善良さといたずらっぽさがありました。かれ自身いつも他人を深く尊敬していましたので、他の人びとからも尊敬されていました。フレール・アンドレは人情家でもあり、時どき、病人や苦しんでいる人の話を聞き、一緒に泣いていました。このようなフレール・アンドレを人びとは愛し、かれもすべての人を心から受け入れていました。


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