今日10月22日は、「聖ヨハネ・パウロ2世教皇の記念日(任意)」です。
Zenitに素晴らしい記事がありましたので、皆様にご紹介致します。今年の4月27日に列聖されたばかりの聖ヨハネ・パウロ2世教皇様の聖遺物についての記事です。
いつかの日か、私たちもこの聖遺物の元に祈りに行けるといいですね。
(聖遺物の写真は、記事の最後に掲載しています)
(原文: The Unknown Relic of St. John Paul II [Zenit])
~ 1981年の暗殺未遂事件の際に教皇様が着ていた肌着が、修道女会に安置される ~
【ローマ 2014年10月21日(Zenit.org) Wlodzimierz Redzioch記者】
1981年5月31日、アゴスティノ・ジェメリ病院の看護師だったアンナ・スタンゲリーニは、いつも通り外科で働いていました。その日の午後5時19分、メフメット・アリ・アジャが教皇ヨハネ・パウロ2世を暗殺しようとしたことは知る由もありません。救急車が病院に入って来て、そこに重傷の教皇が乗っているのを見て初めて、サン・ピエトロ広場で何が起きたのかを悟ったのでした。
手術室は午後5時55分に準備が整い、フランチェスコ・クルチッティ教授の指揮の下、手術が始まりました。とはいえ、最初にやらなければならないことは、教皇を脱がせることでした。そのために貴重な時間は失えません。綿の肌着を切断すると、血まみれのガーゼと共に床に置きました。
肌着を見ているうちに、看護師はこれは捨てるべきではないと感じたのです。彼女はまずそれを清潔なガーゼでくるみ、それを白いハンドタオルに包んだ後、ロッカーにしまいました。誰にも何も言わないままに。
彼女はそれを持って帰って保管していましたが、2000年に、この大変貴重なものを聖ヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会管区長館に寄贈しようと決めたのでした。
アンナ・スタンゲリーニは、かつてその修道会と関係がありました。1964年に彼女は愛徳姉妹会の修練女となったものの、彼女の召命は別にあると悟り、看護師となったのでした。とはいえ、看護師となっても、彼女はその修道会のシスターたちと親しくしていました。
1996年に看護師を引退すると、彼女は修道会管区長館の近くに住み始め、2004年そこで亡くなりました。
前管区長シスター・ベアトリーチェは、ジェメリ病院で働いていた一看護師からの贈り物の価値をすぐさま見抜きました。これこそあの日の血の付いた肌着であり、教皇ヨハネ・パウロ2世の確かな聖遺物となるに違いないと確信したからです。教皇様の肌着をより良い状態で保管するために、ガラスの枠付きケースに安置することとなりました。
ヨハネ・パウロ2世の死後、シスター・ベアトリーチェはピエロ・マリーニ大司教に、続いて教皇庁教皇儀典室儀典長に、この教皇の記念品をお目にかけようと決心しました。大司教はその信憑性を疑うことはありませんでした。
さらに修道女会は、この肌着が真正なものであることを証言するスタンゲリーニの書いた声明文を手に入れました。
用心のために、マリーニ大司教は管区長館にその肌着をバチカンに預けるよう助言しました。シスター・ベアトリーチェは、大そう辛いことではありましたが、その通りにしました。なぜなら、彼女はこの貴重な記念品をもう決して取り戻せないと信じていたからです。ところが、心配することはなかったのです。数日後、儀典長は彼女を呼ぶと、その教皇様の肌着を持って帰るように言ったからです。
2011年5月1日(列福式)は愛徳姉妹会管区長館にとって特別な日となりました。
ヨハネ・パウロ2世の記念品が、新しい福者の聖遺物となったからです。福者の聖遺物は、管区長館の大きなチャペルの小さな脇祭壇の一つに安置されました。
案内してくれたシスターが、愛徳姉妹会創立者のご絵が飾られた脇祭壇の扉を開けた瞬間、私はとても感動しました。
ガラスの向こうに肌着が見えます。襲撃を受け、両脇を切られた肌着には、腹部に赤黒い血のシミがあり(背中部分には3つ穴が開いていました。アリ・アジャの銃から発射された弾が貫いた際に肌着が折り重なっていたということを示しています)、真っ赤な消毒液のシミがついていました。襟の部分には「JP」というイニシャルが赤い糸でしっかりと刺繍されています。
肌着の周囲に、シスターたちはヨハネ・パウロ2世の写真の切り抜き貼っています。銃撃された瞬間のヨハネ・パウロ2世、手術後の病院のベッドで撮られたもの、犯人アリ・アジャとの面会、看護師アンナ・スタンゲリーニと一緒のもの。看護師の声明文や、上長の証書、教皇庁国務省のアドバイザーであるモンシニョール・ピーター・B・ウェルズ師の証明書といった聖遺物の真正性についての証明書も一緒に貼られています。
現在、愛徳姉妹会の前管区長館は「レジナ・ムンディ・ハウス」と名を変え、老齢や病気の修道女たちの住居となっています。しかし、そのチャペルは、「聖ヨハネ・パウロ2世の教会」の一つとなっているのです。
「レジナ・ムンディ・ハウス」の上長であるシスター・アメリアに、このような聖遺物が共同体にあるというのはどうですか? と聞いてみました。
『これは賜物であり、責務でもあります。この聖遺物は、教皇様のこれほど貴く、重要な聖遺物の管理者であることを光栄に感じさせて下さる賜物です。それと同時に、祈りを捧げに来るすべての人びとを受け入れなければならない責任をも感じています。』
たくさんの人びとが、特に水曜日に、「レジナ・ムンディ・ハウス」にやってきます。一般謁見に出席した後、サン・ピエトロ広場で襲撃を受けて血を流した「証し」である聖ヨハネ・パウロ2世教皇の聖遺物の前で祈ろうと、巡礼者が「レジナ・ムンディ・ハウス」にやってくるのです。
(念のためのご説明です)
【聖遺物とは?】
聖人・福者のご遺体や聖十字架の一片のほか、聖人・福者が生前使用したり触れたりしたものが聖遺物です。聖遺物は、聖人への尊崇の念をもって生きる信者の教会生活を豊かにし、信仰を養うために用いられる準秘跡です。
聖遺物は、それ自体に力があると信じられている神社のお守りのような護符とはまったく異なるものです。