世界は聖体礼拝を必要としているのです


祈りと活動は、信仰の両輪です。活動を縁の下で支えてくれる祈りの、特に聖体礼拝の重要性について教えてくれる記事をご紹介したいと思います。

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聖体礼拝―― ご聖体を礼拝するとき、私たちの心は広げられ、知性は真理を理解します。

聖体礼拝にはどのような価値があるのでしょうか?

現代人は、聖体礼拝には特に価値がないと思うかもしれません。コルコタの聖テレサ(マザー・テレサ)のように、世界は宣教者たちの慈善活動を評価しますが、祈り・観想しているカルトジオ会の修道士たちをあまり重要視しません。

修道院に隠棲している修道士たちは何も有益なことはしていないように思える一方、マザー・テレサは見るからに多くの有益で良いことをしていました。教会の多くの人たちもそう納得しています。マルタとマリア、仕えるのに忙しいマルタ、そしてキリストの足元に座ったマリアの間の選択において、私たちは、マルタの肩を持ちがちで、イエスのマリアへの励ましに当惑します。

観想の祈りよりも行いに重きを置くことを、アクティビズム(行動主義)と呼びます。慈善団体の奉仕者たちは彼らの働きこそが重要であり、祈りは他の人たちのものであると考えるようにごまかされてしまうのです。フランシスコ教皇様はこのような態度を非難し、それはカトリック教会の慈善をNGOレベルに落としてしまうと仰いました。極端な社会正義への傾倒は、しばしば個人の清めと道徳の怠りを偽り隠すものです。祈りなしには、私たちは御父の愛に開かれませんし、神の愛なしには私たちの慈善の行いは虚しいものとなります。

マザー・テレサはこのことをよく理解していました。
つまり彼女のすべての慈しみの行いはご聖体のうちにおられるイエスを礼拝することから流れ出て、それに基づいていることをよく理解していたのです。修道会のシスターたちが最も貧しく最も見捨てられた人びとのうちにおられるイエスを認め、仕えることができるのは、まずキリストを礼拝することによってのみ可能なのです。

聖体礼拝の間、人は何をするのでしょうか。
恋人たちがお互いに愛をこめて見つめているとき、彼らは何をするのでしょうか。教皇ベネディクト16世がハイドパークで聖体礼拝を導かれた時、メディアが驚いたことには、およそ8万人の若者たちが教皇と共に沈黙を保ちました。沈黙はテレビ的には良くありません。テレビには絶え間ないおしゃべりが必要です。しかし聖体礼拝には沈黙が必要です。

第2に、聖体礼拝には注意深さが必要です。
カップルがお互いに向き合ってレストランの席に着いていても、2人がお互いではなく、それぞれのスマホの画面を熱心に見ているのを目にしたら、それは心が痛みますね。その人間関係の中で何が支配的なのかを知るのは簡単です。私たちは一番にしているものに注意を向けます。聖体礼拝では、私たちは主に注意を向けるのです。

そして第3に、聖体礼拝には感受性が必要です。
私たちの沈黙と注意深さの中で、私たちは神から受け取ります。私たちが神に何かして差し上げることができるという思い違いは、私たちから取り去られるでしょう。主は渇望されることを渇望しているのです。主は慕い求められることを慕い求めているのです。主は私たちを導き、教えられますが、私たちが主にそうしていただくように任せるならば、なのです。
聖体礼拝では、私たちは神から神について、そして私たち自身についての真理を受け取るのです。

『大いなる沈黙へ』(2005年)という映画では、私たちはカルトジオ会の修道院の生活を垣間見ることができます。カメラは修道士たちの顔をあらゆる角度から、一人ひとりを長撮りしていますが、各々の顔には、大いなる静寂の表情が見て取れます。私たちは自分の依存した、有限の性質のうちに幸せである被造物の満ち足りた感とその目に、神の愛をもって輝いている更に幸せな被造物の様を見るのです。被造物のうちにそのような自由さを生み出すのは、観想と礼拝の生活なのです。
J・R・R・トールキン(「指輪物語」の作者)はかつて、自分はフランシス・トンプソンの「天の猟犬」に追われて主に誠実であることに立ち返ったのではなく、愛に飢え渇く者としてご聖体への飢え渇きによって立ち返ったのであると言いました。第2次大戦中に彼の2番目の息子へ宛てた手紙では(その内容は結婚と性についてですが)、次のように書いています。

私自身の人生、非常に欲求不満なものだったが、その暗闇から出たので、私はこの地上で愛すべき偉大な一つのものを君の前に示そう。それはご聖体だ。……そこに君はロマンス、栄光、誉れ、誠実、そして地上での愛の全き真実な方法を見出すだろう。……それだけが持つ味わいによって、この地上での人間関係に君が求めるものを、……真実の様相と永遠に続くものの様相、すべての人が心から求めるものを見出し、身に帯びるだろう。

ここメジュゴリエでは、私は英語圏からの巡礼者のためのチャプレンをしています。毎日、聖堂で聖体礼拝があり、週に4日、晩に聖体賛美式が行われています。それはメジュゴリエの大きなしるしの一つです。7千人から1万人が、沈黙し、跪き、主を礼拝しています。ここでは、多くの信徒たちと司祭たちが聖体礼拝を愛することを学んでいます。彼らは主のすばらしさを味わい見ています。聖体礼拝はメジュゴリエの中心です。なぜならどこの小教区においてもそうであらねばならないように、イエスはこの小教区の中心だからです。

聖体礼拝はメジュゴリエの中心です、と私は言いました。私自身の経験においても、それは力強いものです。イエスは熱心に慕う心をもって私たちを待っておられます。そして主はご自身を私たちに惜しまず与えたいのです。それはシャンパンタワーのようで、一番てっぺんのグラスがシャンパンで満ちると、それは溢れ流れて、下のグラスを満たすのです。聖体礼拝においても、私たちが受けようと心を開くとき、神は私たちの心を愛するように広げて下さるのです。そしてその愛は他の人たちへと、まさにシャンパンタワーのように溢れ流れていきます。
時々、人びとはほとんど変化を経験しません。それはしばしば告白されていない罪や主から自分たち自身を隠しているからです。もし私たちが自分たちの心を閉じ、もし自分たちの傷や自分たちについてのあらゆることを主から隠し続けるなら、変化はほぼあり得ません。その時、聖体礼拝は耐えるべきまたは、避けるべき重荷として感じられるでしょう。
しかし私たちが主に心を開くとき、それは非常に力強いものです。神は私たちに与えたいと思っておられる非常に多くの恵みを持っておられます。そして主は私たちを祈りや聖体礼拝をとおして教え導かれるのです。時々、私たちは聖体礼拝の間、主とともに徹夜の祈りをし、償いと愛の行いをします。それは世界がこのことを非常に必要としているからです。

ルルドでは、奇跡のほとんどが聖体礼拝の最中に起こります。メジュゴリエでも、同様です。心からの価値ある聖体礼拝の最中に非常に大いなる力と恵みがご聖体から輝き出ますが、結局は、これは「何か」を得るということではありません。

アルスの司祭聖ヴィアンネはある信徒が聖体礼拝の間に次のように言ったと述べています。「私は主を見つめ、主は私を見つめる」と。それは互いに愛し合う2人のことです。つまり被造物とその創造主なる神のことです。私たちが深く渇くほどに、神は私たちにますますお与えになるのです。実に、神はこの神への渇きを私たちにお与えになります。
教会に来ましょう。そして天国をあなたの上に降らせていただきましょう。

※ ドミニコ会レオン・ペレイラ神父はボスニア-ヘルツェゴビナのメジュゴリエにおける英語圏からの巡礼者たちのチャプレンです。

(翻訳:AS)

= 参考記事 =
・ Adoration may seem useless – but the world needs it desperately [Catholic Herald]

= 関連記事 =
・ ご聖体のみ前で (2) (2017/11/11)
・ ご聖体のみ前で (2016/05/29)

= 関連聖品 =
・ 『書簡 聖体礼拝への招き』 『書簡 聖体礼拝への招き』 [WEBショップ]
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