メジュゴリエ40周年記念 バチカン特使インタビュー

メジュゴリエ40周年 聖母行列2021年6月24日~25日、最初にメジュゴリエで聖母が出現されてから、40周年を迎えました。1981年6月24日に最初の出現があり、翌25日に聖母はご自分が誰であるかを明かされたのです(詳しくはこちら)。
メジュゴリエではこれを記念して、数々の記念行事が行われました。

この記念日に当たり、バチカン特使ヘンリク・ホーサー大司教様へのインタビューがメジュゴリエ公式サイトに掲載されましたので、ご紹介致します。
聞き手は、ホーサー大司教様と同じ使徒会(SAC: Societas Apostolatus Catholici)に所属し、ポーランドのカトリック系ラジオ局PALLOTTI FMでディレクターを務めるルカス・ゴラス神父です。

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ゴラス神父:
ヘンリク・ホーサー大司教に、6月24~25日にメジュゴリエに聖母が出現してから40周年というこの重要な日にご挨拶申し上げます。これはとても重要な記念日であり、巡礼者が到着したメジュゴリエでは重要な時期ですが、世界中でも重要な時期だと思います。

ホーサー大司教:
世界中から大勢の巡礼者がメジュゴリエにやってくるので、この喜びが国際的にも広がる、素晴らしい記念日であることは間違いありません。40という数字には聖書的な意味があり、何か重要なことが起こる時だということに注目していただきたいと思います。実際、この場所で何かが起こり、それは今も続いており、さらに発展しています。

私が言えるのは、すべては、今日、出現の丘と呼ばれる丘で聖母を見たと主張する6人の若者、子供、ティーンエイジャーの証言から始まったということです。
聖母は自らを「平和の女王」と名乗り、私たちを回心、懺悔、神と調和した生活、そして世界に平和を広めることに招いてくれました。幻視者たちは、最初はグループで会っていましたが、その後、時間が経つにつれ、それぞれが「聖母との出会い」と呼ぶ個別の体験をしていますが、自分だけの体験もありました。それが基本的なテーマであり、そのような出現は教会では認識されていませんでした。
これらの出現は、ルルドやファティマで起こった“古典的”な出現とはまったく異なる性格を持っています。これが、教会が判断を急がない理由の一つです。
聖母のメッセージは何も新しいものではありません。聖母は、私たちが生活の中でイエス・キリストを発見できるように、祈り、断食、告解、秘跡に従った生活など、常に回心を促しています。「未信者」について語るとき、彼女はそのような言葉を使わず、「神の愛をまだ知らない人たち」と言っています。

つまり、メジュゴリエの現象は40年前に始まったのです。この霊性とこの場所は、ボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアに住む人びとによって最初に発見され、その後、この霊性は世界中に広がっていきました。パンデミック以前には、約200万人がメジュゴリエを訪れており、世界中から多くの巡礼者が集まる非常に有名な場所です。ポーランドの有名な都市であるチェンストホヴァのように、バルカン半島の南東部においてとても重要な場所なのです。人びとは告解のためにメジュゴリエに来ますし、大きな祭事の際にも来ます。パンデミックの時にも、地元の巡礼者たちがミサや祝典に参加していました。これらのおかげで、メジュゴリエは独特で特別な雰囲気を放っています。40年が経過しました。これは成熟と成長の40年でしたが、3つの異なる時期がありました。

最初の旧ユーゴスラビア時代、共産主義政権の支配下にあった時代は、どこかファティマと比較することができます。政権は、幻視者たちと彼らを助けた司祭を迫害したからです。当時の司祭は、メジュゴリエを保護し、擁護し、すべては嘘だと宣言することを拒否し、真実だと主張しただけで、2年間の懲役刑を科せられました。この時期は、ファティマと同じように、非常に困難な時期でした。ファティマでは、フリーメーソンが率いる警察と国家機関が子供たちを迫害していましたが、ここでは、共産主義者が迫害を始めました。

第2の時期は、戦争の時期でした。戦争はメジュゴリエ自体にも起こりましたが、メジュゴリエは平和なままでした。しかし、メジュゴリエはすべての人びとの力の源であり、物質的な援助の源でもありました。この援助は、それを最も必要としている場所に与えられました。

戦後、デイトン和平合意の結果、ボスニア・ヘルツェゴビナという若い国家が誕生しましたが、この国家は、最も多いイスラム教徒、南部の正教徒とローマ・カトリック教徒という3つの宗教から成っていました。メジュゴリエの地理的背景はそのようなものであり、メジュゴリエは平和と統一へと誘います。

いずれにしても、この場所は、建築物に関してはルルドやファティマに比べてはるかに控えめですが、これらの場所で出現が起こった時期を考慮すると、そのような場所です。ここには単純な三角形の地形があり、1つ目の点には教区教会が、2つ目の点には出現の丘が、3つ目の点には十字架の山があります。この山は1933年、主の受難1900年の聖年の際に、8メートルの十字架が建てられた場所です。
パンデミックの影響で巡礼者の数は減少しましたが、近隣諸国からの巡礼者は後を絶ちません。その数は増え続けており、40周年記念行事のために、ポーランドからは少なくともバス50台、ウクライナからはバス30台が来ており、巡礼者たちは再びこの場所に戻ってきたのです。

メジュゴリエで特徴的なのは、一度来た人が何度も戻ってくることです。実際、多くの人が何度もここを訪れています。私はワルシャワ大司教区のある男性を知っていますが、彼は少なくとも月に一度はメジュゴリエに来ていました。これは私にとって真の「現象」です。私にとって、これは最も適切な表現である「現象」です。なぜでしょうか?
まず第1に、出現がまだ認められていないからです。そして、メジュゴリエには公式な地位がありません。ただの小教区で、それ以上のものではなく、聖地の大聖堂でもなければ、巡礼者の目的地でもありませんが、この場所は事実上、教会によって認められています。教皇フランシスコのおかげで、メジュゴリエに一定の法的イメージが与えられ、メジュゴリエ教区のために特別な役割を果たす教皇庁の特派常駐巡察師が任命され、その後、巡礼の組織化に関するすべての制限が取り除かれ、司教や枢機卿の来訪が認められ、司祭を含むすべての人が公式に巡礼を組織し、この場所で典礼を祝うことができるようになりました。
したがって、事実上、巡礼者が来やすいように機能している要素がありますが、その来方は今までとは少し違います。今年はユースフェスティバルの開催も計画されていますが、これまでよりも控えめなものになるでしょう。様々な理由で今年のフェスティバルに来られない司教もいますが、幾人もの司教が続々と到着しており、地元のフランシスコ会のコミュニティに感謝しています。彼らの役割はチェンストホヴァのパウロ会司祭団のようなもので、彼らと彼らの忍耐力のおかげで、メジュゴリエは今も発展し続けています。

ゴラス神父:
大司教様、この間、6月24日と25日はメジュゴリエに多くの人が集まっていると思います。この偉大な記念日に参加するすべての人びとにメッセージがありますか?

ホーサー大司教:
聖母がメジュゴリエで語られた第1のこと、それは告解、回心、平和、そして私たちの生活の中にイエス・キリストを発見することへの招きです。メジュゴリエで機能している第2の非常に重要な側面は、秘跡に従った生活です。多くの場合、私たちの日常生活は秘跡を欠いています。特に信仰やキリスト教という観点から見ると、私たちの生活は過度に人間的であり、宗教的ではないといえるでしょう。この場所は、人間と神の関係がいかに重要であるかを思い出させてくれます。
私たちは、他の人びととのさまざまな横の関係、より発展した関係、あるいはそうではない関係を持っていますが、この神との関係は非常に軽視されてきました。それは、日々の祈りや適切な生活の仕方に表される、神と人との直接的な触れあいでできています。
私たちは、キリスト教文化、私たちの行動、個人や社会の道徳において、証ししなければなりません。これは、使徒時代にすでに強調されていたことです。これらの要素は、メジュゴリエのメッセージに非常によく現れていると思います。人びとはいつも、巡礼の過程で受け取った実りを心に抱きながら、喜んで日常生活に戻っていきます。

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(翻訳:AS)

= 参照記事 =
The interview with Archbishop Henryk Hoser for the occasion of the 40th Anniversary of Our Lady’s Apparitions in Medjugorje [Medjugorje]

= 関連記事 =
教皇フランシスコ、メジュゴリエへの公式巡礼を許可 (2019/05/13)
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