今日2月8日は、聖ジュゼッピーナ・バキータおとめ[1868頃~1947]の記念日(任意)です。
2000年10月に列聖された比較的新しい聖人ですが、その名を知る方も多いのではないでしょうか。
スーダン・ダルフール地方に生まれた彼女は、7歳の時誘拐されてから、20歳まで奴隷としてひどい生活を味わいました。
その後幸いなことに自由の身となり、イタリアで洗礼を受け、カノッサ修道女会に入って人びとに献身的に奉仕する生活を送ります。
晩年彼女は、こう言ったといいます。
私を誘拐し、ひどく苦しめた人に
出会ったら、
ひざまづいて接吻するでしょう。
あのことがなかったら、
私は今、キリスト者でも修道女でもないからです。
私だったら奴隷商人たちに対して、文句を言ったり侮蔑の言葉を言ったりするでしょう。
もし言葉を我慢できたとしても、憎しみの心は止められないでしょう。
どのような心から、この言葉を言うことができたのでしょう?
奴隷として扱われ、苦しみのどん底を体験したからこそ、自分は人を見下すことはしたくないと思ったのかもしれません。
人間以下のものと扱われたからこそ、相手を人間として大切にする心をなくしたくないと思ったのかもしれません。
それでも、
本当に心が神様の恵みで満たされていなければ、言えなかったでしょう。
神様だったら、イエズスならどのようにその人たちに対されるだろうかという視点を自分のものとしていなければ、この言葉は生まれなかったでしょう。
私たちは、「奴隷になる」ような苦しみはまず味わうことがありません。
ですが、今自分が苦手だと思っている人、できれば会いたくないと思う人に対して、本当にキリストの心をもって接するとはどういうことかを、聖バキータは示しているように思います。
一足飛びに無理することなくその言葉を実感できるようにはならないでしょう。
ですが、マザー・テレサの言葉にあるように「今日本当は笑顔を向けたくない人に笑顔を向ける」ことから、少しずつ始めて行ければと思います。
主が私たちの心を清めて下さいますように。
※ 画像は、聖バキータ列聖記念スカーフです。(以前スタッフがいただいたもの)
今日、こちらで聖ジュゼッピーナ・バキータのことをはじめて知りました。
スーダン・ダルフール地方は現在も苛酷な状況にあって、
多くの不幸が生まれている事を思うと、
この聖女の執り成しを祈らずにはいられません。
結びのお言葉が、温かく胸に沁みました。
好ましくない状況でも笑顔で。o(*^▽^*)oそうですよね。
良きお話を読ませて頂き、感謝です!
求太さん、コメントありがとうございます。
暗闇から光へと導かれた人生、とても印象的な聖人ですよね。
特に今苦しみの中にある方のために、聖バキータの御取り次ぎを願いたいと思います。
聖バキータの祝日を心からお祝い申し上げます。誠におめでとうございます。
私はこの御方の人生の伝記を同修道女会のシスターからいただきまして、拝読させていただき、アフリカという文化の中での共通の世界であると思っていました。
このような原始的世界においても神様の愛がちゃんとあるという真実を知らせてくださったので、私はこの御方とその姉妹のシスターに神様の愛を実感させてくださいました。
そして、最も素晴らしいのは、ご自分のことを正しく認識していらっしゃったということが、この修道女会の教育の正しさを表していると称賛いたしております。
何でもなりたがる日本人にとって、とても大切な模範になると思います。
私たち日本人は、もう少し謙虚になるべきです。
私も神様の愛に包まれているのを皆さんにわかっていただくのを喜びにして、たくさんの人々に愛を与えるのを祈りのうちに洗練されたいと思います。どこかの幼い修道会のように自分たちはあなたたちとは違う、わたしは偉い!と自慢するのはいただけません。
かしこ
井口さま、コメントありがとうございました。
謙虚さ、決して忘れてはならないものですね。
謙遜の鑑である聖マリアの御取り次ぎも願いながら共に歩んでゆけますように。