【ご報告】主に捧げる24時間(2・終) 聖体礼拝導入の講話

 

主に捧げる24時間 カード(裏)東京カテドラルで行われた「主に捧げる24時間」のご報告2回目です(ご報告1回目はこちら)。

英神父様による導入の講話の後、聖体顕示・礼拝が行われました。その最初に、岡田大司教様による短い講話がありましたので、全文をご紹介したいと思います。

(※ 画像はカテドラルに置かれていたカード[うら面]です)

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皆さん、今晩は特別な時間を過ごしております。いつくしみの特別聖年中の四旬節、そして「主に捧げられる24時間」という、生涯でも本当にまれな大切な時間を私たちは過ごしております。

先ほどは主イエス・キリスト、神のいつくしみの御顔である主イエス・キリストの教え、そしてその生涯についてお話を伺いました。私たちがどんなにか主のいつくしみを与えられているものであるのかということを、今夜しみじみと深く味わいたいと思います。

主イエス・キリストは既に旧約聖書によってあらかじめ示されておりました。今読まれましたイザヤの預言58章は、教皇フランシスコの大勅書、いつくしみの特別聖年を告げる勅書の中で引用されている箇所であります。今お聞きになったイザヤの教えから私が特に心に強く感じている言葉を選んで皆様と一緒にさらに深く味わいたいと思います。

それは次の言葉です。「軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。」

どうでしょうか。私たち、「軛を負わすこと」という言葉は何を差しているのか、そして「指をさす」、今日このイザヤの箇所を再三読んで、前にも読んだはずですが、この「指をさす」という言葉に強く、自分がしていることの中にこの「指をさす」ということがあるのではないか、それから「呪いの言葉をはく」、呪いというとずいぶん強い言葉ですが、私たちが本当に一人ひとりの人の上に神の祝福を願い、そして祈っているだろうか。その逆のことをしていないだろうか。その点を今夜はしみじみと反省したいものであります。

そのような自分勝手な罪深い私たちでありますが、その私たちを神はいつくしみ深く見守り、受け入れ、そしてゆるし、導いて下さっているのであります。

 

東京カテドラル 夜のルルド

 

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