【ご報告】主に捧げる24時間(1) 導入の講話の概要


主に捧げる24時間 カード(表)2016年3月4日(金)から5日(土)にかけて「主に捧げる24時間」が、東京カテドラル(関口教会)で行われました。
これは、フランシスコ教皇様が『いつくしみの特別聖年公布の大勅書』の中で「四旬節第4主日に先立つ金曜日と土曜日に行われる『主に捧げる24時間』の企画は、各教区で力強く奨励されなければなりません。」と奨励されたことに応えるものです。各教区や小教区などで様々な祈りが捧げられたことと思います。

東京カテドラルでの「主に捧げる24時間」に少し参加することができましたので、2回に分けてご報告したいと思います。

参加したのは、4日(金)のプログラムです。導入の講話と、聖体顕示・礼拝に参加して、祈りを共にしてきました。

今回は、英隆一朗神父様(イエズス会)による導入の講話の概要をご紹介致します。
なお、講話は神父様のブログ「福音 お休み処」に後日録音がアップされるそうです。

(※ 画像はカテドラルにおかれていたカード[おもて面]です)

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(講話の最初に、ルカ4・18~19が読まれました)

「主の恵みの年を告げる」、この主の恵みの年がヨベルの年(レビ25)です。7日ごとの安息日。そこから発展して、6年働いたら7年目は安息の年、サバティカル・イヤー。7の7倍の49年働いて、50年目の1年をヨベルの年として定める。50年も経つと貧富の差が激しくなるので、50年に一回、負債が帳消しになる、売った土地が帰って来る、奴隷が解放される年を定めました。今年はユダヤ人のヨベルの年。たまたまユダヤ人のヨベルの年とカトリック教会の聖年が同じ年に行われています。
1300年ボニファティウス8世が借金ではなく罪を赦す聖年を始めました。聖年はヨベルの年=ジュビリー・イヤー。
今年はフランシスコ教皇が聖年を定められました。特別に回心と罪の赦しを祈る年、それに「いつくしみ」が加えられて、「神のいつくしみ」をこの聖年中、そして特に今日明日深めたらいいと思います。

50年ごとのヨベルの年。私たちがいつくしみの特別聖年を過ごしている今年は、たまたまユダヤ人にとってヨベルの年に当たります。

いつくしみ、これはラテン語で misericordia。(ギリシア語 スプランクニゾマイ。ヘブライ語 ラハミーム)。日本語の聖書では「あわれみ」と訳されている言葉です。

聖書においてこの「あわれみ」が表わされている箇所はたくさんありますが、いくつかプリントにしました。

● 放蕩息子のたとえ(ルカ15・11~32)
20節。父親が息子を見つけて「憐れみに思い」、これがmisericordia。「子宮」から来た言葉。これは「はらわたの中から痛みを感じる」ことを意味するもので、いわば「心が痛む」ということに近いもの。この特別聖年は、神様の「はらわたからの痛み」を生きる、黙想するよう呼びかけられている年といえるでしょう。

長子相続なので、弟は家に居場所がない。生前贈与を受けて出ていくが、財産を無駄遣いして、豚の世話をするほど落ちぶれる。それは当時のユダヤ人にとって最低最悪の生き方。最低の生き方にまで到って、弟は我に返る。悔い改める。その弟を父は憐れに思う。
お父さんの甘やかし過ぎのような親切心。これがイエスの心、御父の心を表している。このような憐れみの心、いつくしみの心で神様は私たちを迎えて下さる

ゆるして下さる神がいて、悔い改めて、神のいつくしみの家に戻れる喜び、慰めがある。いつも帰ってくる家がある。ゆるされる喜びがある。至らなさを認めた上で、神の恵みの大きさを知ることが大切です。

聖年は、巡礼とセットになっている。本当の巡礼、大聖年の巡礼とは、父の家に帰ること。自分の道から外れた気持ち、生活から父の家に戻ること。父の家に帰る旅なのです。

兄について。祝宴は神の国の喜び、これに参加しないと決める兄。熱心な信者ほどこの兄になりやすい危険がある。きちんとしようとするあまり、いつくしみの心がなくなって、周りを批判し、神の慈しみから遠ざかってしまう。心の傲慢さ。
悔い改めはこの兄にこそ必要なもの。これはファリサイ速律法学者への批判でもあるたとえ。自分の枠から批判するのを止めて、悔い改めて、神のいつくしみに戻らなければならない。神の心を中心にして生き直す。神のいつくしみの目線から、自分の現状を問いなおしてみましょう。

父は、兄弟どちらも受け入れて愛しています。私たち自身、私たちの教会はどうなっているでしょうか?

教皇フランシスコの伝記である『キリストとともに燃えて』を読むと、教皇様が神のいつくしみを生きている方だと分かります。しかしそれは簡単ではない。修道会の中での対立、政治家との対立に巻き込まれて大変苦労されたことが分かります。神と心を一つにして生きていく信仰、信念がないとできないことです。

● 善いサマリア人のたとえ(ルカ10・25~37)
祭司やレビ人は見て見ぬふりをします。これは教皇様が言われる「無関心のグローバリゼーション」でしょう。忙しくて、自分の仕事が多いから、周りを助ける余裕がない。この反対は「いつくしみの心」です。それは、一人ひとりを助け、大切にする心です。
いつくしみをどう受け止めるかという挑戦をするよう招かれています。いつくしみを生きるよう呼びかけられています。一人ひとり、どのような状態の人の声を受けて、どのようにそれに応えていくか、問いかけられています。
● 群衆に同情する(マタイ9・35~38)
● 十二人を派遣する(マタイ10・5~8)
神のいつくしみの心から、イエス様は「働き手が少ない」と嘆かれています。働き手として皆期待されているのです。誰かが神のいつくしみを表わさないと、それは伝わりません。生活の場で、置かれている場で、周りの人に対して表わしましょう。
神様が痛む心、いつくしみの心で、私たちになにを期待されているのか、問いかけ直さなければなりません。

この聖年は、いつくしみを表す年です。新たなことをするだけでなく、今やっていることをどのような心で行うかが問われています。

「いつくしみの特別聖年」の元々のインスピレーションの元になっているのは、シスター・ファウスティナへの主イエスの啓示です。
ファウスティナ自身は、病弱で、殆ど絵何もできずに亡くなっています。しかし神のいつくしみを秘かな形で生きていました。自分が日々受けている弱さや中傷、批判への苦しみを神に捧げ切ることで、神のいつくしみを示しました。
心身の病気や老年といった苦しみを背負っていても、マイナスと考えず、それをイエスのいつくしみの心に合わせるなら、それは価値あるものとして、他の人を助ける大きな力になります。神のいつくしみの心に合わせて捧げているかどうか、私たちの心、態度、あり方が神様に見られているのです。

自分は何を捧げるのか考え、いつくしみの主に心を合わせましょう。

英隆一朗神父様

(カメラを忘れたので、スマホで遠くから撮っています。粗い画像ですみません)

 

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