【ご報告】2013年5月25日の「メリノール祈りの会」

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2013年5月25日、パウロ・ヤノチンスキー神父様(ドミニコ会)の司式により、小さな祈りの会を開くことができました。

小さな集いでしたが、祈りに満ちた静かな時を過ごすことができました。感謝致します。

※ 画像は、クリックすると拡大表示されます。
  • お聖堂をお借りしたメリノール宣教会のお庭のマリア様
    聖母像
  • 聖体礼拝・ロザリオ
    聖体礼拝
  • ミサ
    ミサ

パウロ神父様のミサ説教を下記にご紹介致します。(録音を書き起こして、編集しています。)
この日の朗読は、シラ17・1-15、マルコ(10・13-16)。福音主題句は「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」でした。

 

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パウロ神父様のミサ説教

ミサ説教聖霊降臨の祭日が終わって私たちはいわゆる年間週日というところにいます。旧約の知的文学のひとつ「シラ書」の朗読が続いています。そのシラ書の箇所は私たちに今日特に人間の姿を説明しています。人間はどういうものか。やはり聖書でなければ私たちは十分に人間のことを理解できないと思います。キリスト教の人間学はとても重要です。

そのひとつは、『私たちは神のかたどりとして作られている』ということです。これを表す綺麗なラテン語があります。それは「Imago Dei」(神の似姿)。それは詳しく考えるなら、「人間は神の子供だ」ということです。その事実を私たちは発見しなければなりません。マリア様を見つめるなら、その内に、素朴な信仰、神の子供の姿を見出すことができるのです。しかも「神の母である」マリア様、そこにはすごい意味が込められています。

 また「私たちは塵にすぎない」という事実もあります。人間は原罪の結果、塵に戻ります。灰の水曜日にはその言葉が用いられます。塵でありながら、私たちの上に神の恵みが注がれています。私たちが唱えている「アヴェ・マリア」を考えてみて下さい。「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方」。この事実に、私たちは目を止める必要があります。マリア様を通して神の恵みをいただくように、神のいつくしみをいただくように、今私たちは祈り、そのように努力していると思いますが、自分のためではなく、教会や世界のために、なお一層祈る必要があると思います。

今日の福音書の言葉はとても単純です。しかしこれは大変なことですね。私たちは競争社会の中に生きているので、時々子供であることを忘れてしまうことが多いと思います。教会の中にあっても。
私は日本に来て間もなく、福島に行きました。そこにいらしたお年寄りの神父様は半分インディアン、半分カナダ人のルネ・ピセ神父様でした。私は理想に燃えて福島に行ったのですが、なかなかその理想と現実が合わないわけですね。ピセ神父様は先輩ですから、私たちに毎日のようにこの言葉を繰り返して言っていたんです。「子供のようでなければ、天国は無理です」と。そして実際に子供たちと接して、私たちにその模範を示されました。子供とはどういうものであるか、また、私たちは神の子供だということを忘れないようにと、イエス様のように私たちに教えていたのです。

神様は愛であり、私たちに恵みを送って下さっているのだということは事実です。ただこれを受け入れる心があるかどうか。私たちの姿勢が問われます。マリア様から、更にそれを学ぶことができると思います。
聖アウグスティヌスはある説教で、このように教えました。もし心が狭いなら神の恵みを受けることはできません。心を広くする必要があります。聖霊の働きはそういう、私たちの心を広くするという点にもあるかもしれません。
私たちはいろんな事情、いろんな試練の中に生きています。マリア様もそうでした。しかしマリア様は無原罪の、完全な信仰をもって、私たちの模範となって下さっています。神のそばにおられる人間として、私たちの母として模範となって下さっている。これは事実です。

私はこのところずっと東京にいますが、その前は10年間東北(福島)にいました。その後アメリカの大学で勉強をすることになり渡米しました。アメリカで、その先の身の振り方について悩んでいたある夜、夢を見ました――私はよく夢を見るんです。福島の婦人方が集まって、綺麗な声でマリア様を賛美する歌を歌っている夢でした。それほど深く祈っていませんでしたが、どういう意味だろうかと考えて閃いたのは、マリア様が私を日本に呼んで下さっているのではないか、ということです。そう理解して、実際日本に帰ってきて以来、また更にマリア様に近づいているような気がします。

また、最近の出来事ですが、先々週、聖心大学聖堂で癒しのミサがありました。ミサが終わると、(希望者一人ひとりに)祈っています。そのうち5人の方が来た時だけ、花の香りがしたんです。何の花の香りか、私には区別できません。バラなのか、ユリなのか。ある人によるとユリの香りだったそうです。私の性格かもしれないのですが、周りに花が置いてあるかどうか見たんです。でも、ないんですね。もしかして誰かが工数をつけているかと思いましたが、そうではないんですね。香るのは瞬間的なのです。次の人が来る前になくなります。ある人が来た時だけ香る。特に「アヴェ・マリア」を唱えた時でした。

「アヴェ・マリア」を唱えて、私たちも子供のような信仰をもって、日本の教会をマリア様に捧げましょう。するとマリア様は働いて下さると思います。
私は正直神学をかなり勉強しました。ですから、現象と信仰は同じではない、現象に基づいた信仰などとんでもないことであると知っています。悪魔も現象を真似ることができますから。ただ、この香りをマリア様の何かの誘いのように、私はこういう風に見ています。

最後にもう一回この聖書の言葉を強調したいと思います。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできません。」


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