【ご報告】2014年6月12日の東京チェナクルム・ミサ説教(4・終)


Pocket

2014年6月12日に行われました東京チェナクルムで、ヨキエル神父様(イエズス会)がなさったミサ説教を書き起こしました。
その第4回です。

第1回から読む第2回から読む第3回から読む

【司式】ハインリッヒ・ヨキエル神父様(イエズス会)

【ミサ朗読個所】

  • 第1朗読 列王記上18・41-46
  • 福音朗読 マタイ5・20-26
.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.

ミサ(ヨキエル神父様)

私たちは度々、神様は目に見えないから、なにか遠い存在と思います。遠い存在ではないんです。今、ここに、いらっしゃいます。今ここに。聖櫃の中にいるだけでなく、ここに、私たちの中にいます。たとえ聖櫃がなくても、自分の家にいても。二人三人でもイエス様のために集まれば、イエス様はそこにいらっしゃるんです。しかし二人三人いなくても、神様はどこにでもいらっしゃいます。どこにでも。いらっしゃらないところなどないんです。

地獄にも神様がいないことはないんです。神様はいます。ただその関係は違いますね。地獄では、人は神様に逆らっている被造物の関係ですから、神様の怒りを感じます。その人びとは神様の愛を受け入れません。神様を憎んでるんです。

しかし他にも、たとえば現代の沢山の人は神様に無関心です。神様との愛の関係がまだないんです。非常に恐ろしい状態です。
そういう状態では、イエス様はこう言います、「あなたがたの義がファリサイ人のような義でなければ天国に入れない」。ファリサイ人は外面的には信者でした。ちゃんと維持費を払いました。ちゃんと10分の1です。10分の1ですよ、1%じゃない、10分の1です。だから、庭のハーブも野菜も全部10分の1納めたんですよ、ちゃんと。しかし、心に愛がないんです。自分の部下、自分のしもべたちに、正しい賃金を払いませんでしたし、愛を持って取り扱いませんでした。それをイエス様は見ています。心の中に憎みがあれば、つまり(相手を心の中で)殺しているのと同じ状態だったら、天国に入れません。早く治さなくちゃならない。

ここでイエス様は、裁判とか高等法院とか、刑務所に入れるとか、そういう表現を使っています。それはあの時代の人びとにはピンと来るから。意図がピンとくる。早く回心しないと、裁きがある、それも厳しい裁きです。
お金のことだったら、最後の1クァドランスまで――1クァドランスは10円くらいでしょう――払うまで終わりません。それを払ったら終わりです。けれど、神様に対する罪であれば、責めがあれば、それは終わりません。

(今日の福音の中で)イエス様は重大なことを言います。神様にとって重大なことを。けれども私たちはそれを、ただファリサイ人のように「神様は厳しい方です。神様は法律を与え、私たちはそれに従わなければならない」とだけ考えるなら、それはちょっと足りません。ほんとうに神様は私たちを愛しているから、私たちもその愛にもっと応えるようにしましょう。神様の愛をもっと意識して、それに応えるように努めましょう。毎日の生活の中で。

そのためにも、すべての司祭のために祈りましょう。イエス様は、特に司祭について――司祭はイエス様の弟子と同じですから――その愛を期待しています。しかし司祭の中にもそれに応えられていない人が沢山います。それでイエス様は非常に苦しんでいます。だから聖母マリアはゴッビ神父様にメッセージを与えました。司祭は一致しなければなりません。一致から愛が生まれますから。愛とは、互いに関心を持って、手伝い合って、話し合って、信仰を深めていく。そういう愛が必要です。それができるように皆で祈らなければならないんです。司祭を作るのは教会です。教会が本当によく祈れば、いい司祭ができるんです。だからそういう意向で、私たちは今日のごミサを捧げましょう。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン。

終わり [E:clover]

はてなブックマークに追加
Yahoo!ブックマークに登録


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です