労働の実りは誰のおかげ?(10月2日 年間第27主日)

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次の主日(10月2日 年間第27主日)に向けて、黙想のタネを1つご紹介致します。
(アメリカ・ミネソタの聖パウロ大司教区のサイト「TheCtholicSpirit.com」より
原文: To whom do you give credit for the fruit of your labor?

(訳:いつくしみセンター)

収穫

労働の実りは誰のおかげ?
[主日朗読個所 イザヤ5・1~7、フィリピ4・6~9、マタイ21・33~43]
( by ジェラルド・クリスチャンスン助祭 )

『老庭師が土地を掘り返しているところに司祭が通りかかった。
「ジョージ」司祭は言った。「神と人が共に働けるというのは素晴らしいものだな」
彼は答えた。「そうですね、神父様。でも去年神様だけで世話してた時の庭ときたら!」』
この古い小話は今日の第1朗読(イザヤ5・1~7)と福音(マタイ21・33~43)に見事につながっています。庭はイザヤのいうぶどう畑のように荒れ果てていました。ジョージの素晴らしい働きと、神様の愛の恵みによって、美しい庭になったのです。
ジョージはマタイ福音書の農夫たちと同じ過ちを犯しかけています。彼は、美しい庭を作り出したのが彼自身の働きだけによるものだという見当違いをしかけているのです。
すべては自分の努力だけによるものだという見当違いは、大半の人が犯しがちなものです。
ジョージのように、素晴らしい進展があった時、それは自分だけの手柄によるものだと信じたいのです。独力で出世するという、典型的な、アメリカらしい発想です。
しかし、それは神が与えて下さった恵みなのだと、よく覚えておかねばなりません。
確かに、神様と協力して自分の分を果たさなければなりませんが、神様から離れても何とか成し遂げられるからと、神様の分の努力の実りを取り上げたり、その功績を独り占めしようなどという、うぬぼれた考えに抗わねばならないのです。
私たちの成功を許される神の寛容さを理解した時、謙遜になるだけではありません。同時に、個々の努力の結果をたった一人で引き受けなければならないことから来る不安から解放されるのです。誠実に才能(タレント)を用いることで、神がその結果を導かれるという確信を得て安心できるのです。しかしこれは、なにをしても成功が保証されている、ということではありません。
<神は何が最善かをご存知です>
私たちの努力に神の働きが加わるにあたり、自分で思うよりも私たちの必要としているものを神様がご存知だという事実も受け入れなければなりません。自分の望みと異なることになっても、まったく無意味だというわけではありません。
御手の中にその結果を委ね続けるなら、現代病であるストレスや不安から自由になるでしょう。
神の恵みは、すべての人の必要に応える資源で満たされています。この資源をどのように役立てるかということが、神への捧げもの、創造の御業への貢献となります。
この義務を完全に投げ出して、野ぶどうを作ることもできるでしょう。
与えられた神の資源を使っておきながら神を締め出し、正当な所有者とその実りを分かつことを自分勝手に拒んで、すべてを神抜きで成し遂げたように生きることもできるでしょう。
怠惰や傲慢を退け、愛する神のしもべとして、持っているものや行いのすべては何より神のものであると謙遜に認める方を選ぶこともできるのです。
(祈りで締めくくります)
「神様、私たちに豊かに恵みを与えて下さい。
私たち自身のためではなく、あなたのさらなる栄光のために」
* ジェラルド・クリスチャンスン助祭
アメリカ・イリノイ州ロックフォールド教区司祭叙階準備中。聖パウロ神学院所属。
イリノイ州パーク・リッジの十字架の聖パウロ小教区出身。ミネソタ州イダイナの恵みの聖母教会にて奉仕中。

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