【ご報告】2015年7月16日の東京チェナクルムのご報告

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2015年7月16日(カルメル山の聖母の記念日[任意])、東京チェナクルムが行われました。

パウロ・ヤノチンスキー神父様(ドミニコ会)が司式をして下さいました。
また、ちょうど来日しておられた、同じくドミニコ会のヒエロニモ神父様が、一緒に来て下さいました。ヒエロニモ神父様は、普段チェコ・プラハのドミニコ会修道院におられ、長年神学生の養成に携わってこられました。
ヒエロニモ神父様のお説教をご紹介致します。

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パウロ師(左)と、ヒエロニモ師(右)

● 朗読箇所
  • 第1朗読 出エジプト3・13-20
    「私はある。私はあるという者だ。『私はある』という方が私をあなたたちに遣わされた。」
  • 福音朗読 マタイ11・28-30
    「私は柔和で謙遜なものである。」
● お説教
今日皆さんと祈りを共にできるのは、教会の豊かさを知るチャンスであり、とても嬉しいことです。ヨーロッパにいらした際には、是非プラハにいらして下さい。チェコ・プラハのドミニコ会は、町のちょうど真ん中、旧市街にあります。ドミニコ会は説教を通して活動していますので、観光案内ではなく、説教をしたいと思います。

回勅という、教皇様が全教会に向けて度々出している文書があります。その時代の、世界と教会にとって重要な課題について回勅を書くわけです。最近フランシスコ教皇様はエコロジー、環境について回勅を書かれました(『ラウダート・シ(未邦訳)』)。ベネディクト16世教皇様は、愛・信仰・希望について回勅を書かれました。聖ヨハネ・パウロ2世教皇様も沢山の、15くらいの回勅を出されました。そのうちの一つは、ご存知のように、マリア様についてです。皆さんはこの回勅(『救い主の母』
)をお読みになったことがあるでしょう。今日はこれに関して、私が個人的に考えたことをお話ししたいと思います。

マリア様は、巡礼している教会(旅する教会)の先駆者です。回勅の中に、「信仰とは、神秘的に神様と一致することです」とあります。信仰は、場合によっては運動という形になりますが、必ず何か「関係」、人と人、神と人という関係を形作ります。マリア様は新約の原点に立っておられますが、ユダヤ人です。ユダヤ人は巡礼のことをよく知っていました。ユダヤ人はよく移動していたからです。

今日の第1朗読(出エジプト3・13-20)にも、移動について触れているみ言葉があります。その中でモーゼは神様に「お名前を教えてください」と質問します。なぜならその「名によって」歩むからです。歩きながら、神様と一致することによって、彼の信仰はだんだん深くなっていくんです。エジプトを出た選ばれた民は、必要なものをすべて神様から頂いていました。マンナに飽きたら、ウズラを頂きました。

神様は、私たちの願いに応えて下さいます。ときどき、私たちの想像を超えた豊かな表現で応えて下さいます。しかし、共に歩む私たちの協力も求められます。紅海を前にしたモーゼが「何をしたらいいでしょうか?」と問うと、神様は「前に一歩進むように」言われました。つまり海に入りなさいと。それには危険が伴います。しかし、神は力を現され、海の中を通れるようになります。ここに学ぶべき教訓があります。
神様の恵みは、私たちの決断の上に実現されます。私たちが望まなければ、神様は決して私たちを強制的には救って下さいません。洗礼や叙階、婚姻の秘跡を受ける際「本当に望みますか?」と問いかけられます。ミサの時司祭は「キリストの体」と言い、拝領する者の同意を待ちます。

マリア様も同じように協力する態度を示されています。「お言葉どおりこの身になりますように」と仰いましたね。「協力します」というマリア様の決断の表明です。このマリア様の「フィアト(こうなりますように)」の中に、教会も存在しています。マリア様の言葉によって、み言葉が肉となり、教会がが生まれ、使徒たちが現われ、教会は発展してゆきました。これはマリア様の言葉によるものです。

マリア様は「フィアト(こうなりますように)」という言葉によって、信仰における歩みを始めます。私たちも前向きに進んでいるかどうか、その心の状態を問われます。
私たちは人間で、当然弱いもので、罪深く、完全ではありません。かといって、その弱さから逃げることもできません。しかし、前に、一歩進むのは大事なことです。人によって、その次元やスピードは違います。他の人と比較してはいけません。以前しそこなったことを行う、人を赦す、誰かに電話をかけるために時間を割く、聖書のより深い理解のために学ぶ……。私たちが本当に精一杯先へ進めばそれで十分です。先へ進むその一歩は、愛と真理の歩みです。

よく信者さんたちはこのように考えます、神様のために何かしなければ、と。しかし、キリスト教は神様からの約束の宗教、恵みの宗教です。神様が与えて下さるものをいただくのです。福音書にある通り、最期の時に、いただいた賜物をどのように使ったが問われます。一歩進むことに大きな困難が伴うこともあるでしょう。外面的には何もないのに、内面的に色々な問題を背負っていることもあります。その問題を乗り越えてゆくことで、人生における新時代を拓くこともあります。それについて誰かに伝えたり、何かを書いたりしなくて結構です。他の人には分かることではないでしょう。しかし、その歩みは、本当の巡礼です。信仰における巡礼です。マリア様はその巡礼の模範となっています。
真理へと、愛へと、先へ進むことができるように祈りましょう。

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プラハの幼子イエス
プラハといえば、「幼子イエス」の有名なご像があります。ヒエロニモ神父様は、そのご絵を持って来て下さいました。

多くの奇跡をもたらしたことで有名なこのご像は、現在カルメル会が管轄する「勝利の聖母教会」に安置されているそうです。

= 参考書籍 =

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