抜粋・翻訳:尾崎神父様(オプス・デイ)
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[E:clover]司会者:
質問は、復活についてイタリアからです。
[E:clover]質問者:
教皇様、日曜日の朝、婦人たちが墓に着いたとき、イエス様だと分からず、他の人と間違えました。使徒たちにも同じことが起こっています。イエス様は手足の傷を見せたり、パンを割いたりしないといけませんでした。
復活したイエス様の体は、肉と骨からできた本当の体でしたが、栄光の体でもありました。
復活後の体は以前の体と同じ性質のものではないということは、どういう意味ですか。
「栄光の体」とはどういう意味ですか。
私たちの復活においても同じことが起こるのですか。
[E:clover]教皇様:
言うまでもなく、栄光の体がどのようなものであるかを知ることはできません。というのは、それは私たちの経験を超えることだからです。
この現実を出来る範囲で理解するため、イエスが見せたいくつかのしるしを解釈することしかできません。
最初のしるしは、からの墓です。つまり、イエスは自分の体が腐敗することを許さず、物質も永遠に存続すること、本当に復活したこと、敗北したのではないこと、を教えました。
しかし、イエスは新しい仕方で物質(肉体)をおとりになったのです。これが第2点です。
つまり、イエスはもう二度と死ぬことはない、言い換えると、その肉体は生物学や物理学の法則を超えているということです。それゆえに、私たちに新しい存在の仕方がある。ただし、それは私たちにはどんなものかは分かりません。とはいえ、イエスに起こったことを見てある程度推測することができます。
このことは、私たち皆にとって、新しい世界、新しい生活があり、私たちはそれに向かって進んでいるという驚くべき約束です。この新しい肉体をもったイエスに対し、他の人びとは体に触れることもでき、イエスは友人たちにその手をお示しになり、彼らと一緒に食事をすることもお出来になりました。しかし、それは私たちが今生きている条件とは異なる、生物学の法則を超えたものです。
私たちが知っていることは、一方でイエスは幽霊ではなく、本当に生きている正真正銘の人間であったこと、他方もう死の支配下にはおられないということです。これは私たちにとって偉大な約束となります。
少なくともできる範囲で、ご聖体の例を頼りに、このことを理解することは重要です。すなわち、ご聖体において主は私たちにその栄光の御体をお与えになります。私たちがいただく主の御体は、普通の死せる肉体ではないのです。それゆえ(中略)主の現存によって私たちは主に浸透されて、主と一体になることができるのです。これは重要なポイントです。というのは、主が私の中にお入りになり、私が自分の殻を破って外に出ることで、私は新しい次元の生命に引き上げられ、このようにして、私たちは栄光の生命と触れることができるからです。
約束のこの面、主がご自分を私たちにお与えになり、私が自分の外に出ることで私を引き上げて下さるということは、最も重要な問題だと思います。それは、私たちの理解できないことを解明しようとすることではなく、ご聖体においてつねに新たに始まるこの新しい世界に向かって行こうとすることなのです。